『守貞謾稿(もりさだま●こう)』とは、江戸時代後期の庶民の暮らしを詳細に記録した、いわば “事典”。180年以上前の文献でありながら、今を生きる私たちにとっても、多くの気づきがあります。法政大学名誉教授で江戸文化研究者の田中優子さんの解説で、その一部を読み解きます。
江戸時代後期の人々の暮らしを知るうえで、最良の資料とされる『守貞謾稿』。この文献と著者の喜田川守貞(きたがわもりさだ)という人物の素晴らしさは、どういうところにあるのでしょうか。
同著を「開くたびに発見がある」と称賛する田中優子さんは、「一つは、守貞の驚異的な記憶力とそれを表現する力です」と話します。
「守貞は大坂(現・大阪)で生まれ、31歳で江戸へ出てから、大坂と京都、江戸の風俗や事物を比較しながら記録し始めたのですが、絵を見るたび『よくこんなに細かいところまで』と思います」。
確かに、行商人の頰かぶりに至るまで、丁寧に描写。自分が後から調べて加筆できるようにと余白を取りながら書き進めていたところも含め、「すべてを正確に書き残す」という強い意志が感じられます。
「もう一つは、35巻にも及ぶ大作をたった一人で30年かけて作り上げたことです。同時代にも貴重な記録を残している人は何人かいます。たとえば、『江戸名所図会』は優れた名所案内ですが、斎藤幸雄とその子孫が3代にわたって絵師とともに作ったものです。また、斎藤は現代でいう区長のような職についていたので、使命感があったのだろうと想像がつきますが、砂糖商だった守貞にはそうした背景もありません」。
誰に頼まれたわけでもなく、自ら思い立ち、おそらく楽しみながら記録し続けた、その結晶なのです。
では、『守貞謾稿』に描かれている暮らしを、田中さんはどのようにとらえているのでしょう。
「江戸の町が大きく変わったのは、京都や大坂ではなく、江戸で初めて色彩浮世絵が生まれた1765年。江戸が都市文化の中心になり、人々の暮らし方や価値観に現代とつながるものが現れてきました。ですから、1837~1867年の江戸の風俗を描いた『守貞謾稿』には私たちにもなじみのある行事や事物が少なからず出ています。平安時代には人形で体をなで、穢れや災いをうつして川に流す行事だった桃の節句が
鎖国したくともアメリカやらポルトガルが攻め込んできてインディアンやインカ帝国と同じ様に殺されたり押し込められて被差別民になったりしたんじゃないかね
それだったら開国の時点でそうなってるわ
日本は占領するには文化的に発展しすぎてたんだよ
オランダと交易してた時点で鎖国なんて言い方間違ってるんだけど教科書ではそう教えてた
幕府と関係なく松前藩や薩摩藩なんかも海外と貿易してた
冷静に論理的に考えることをしない
これからわかるよ
その前に冬の寒さに耐えられず死んでる
参勤交代で来てる高い消費者層がいてその周囲に田舎から人がいっぱい流れてきただけだぞ
でかい御屋敷たちがインフラ整備もしてくれるし
みんなひとりもんだし
てかこいつ法政のあのBBAじゃん
病人の扱いなんて
正直それは昭和ですらあんましかわんない
今みたいな医療や衛生の認識ってぶっちゃけここ50年やで
多分ワイらすでに70年代以前の生活はできん
絢爛豪華な文化がどうのホルホルとかさ
京に住んだこともない田舎者だろ
何がわかってたか怪しいもんだ
寿司が生まれてても大半の庶民が1日一本のメザシも食えなかったんだぜ
芝居が上方から伝わってもくまさん八っつぁんはタクワンで花見だ
嘘ばかりだ
いや、それまでどないしてたんや!



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