【古代】邪馬台国九州・畿内並存説、魏志倭人伝の矛盾を解く

1 : 2020/11/25(水) 22:57:29.05 ID:DQUDgTbV9

歴史堂vol.12(朝日新聞出版、11月6日)の特集は「古代史の謎を解き明かす」である。初めての古代史特集だそうだ。「謎の女王卑弥呼の正体」は武光誠さん監修、「邪馬台国はどこにあったのか?」は仁藤淳史さん監修による。

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仁藤さんは、九州説の拠り所である邪馬台国までの総距離(1万2000余里)を実際の距離ではないと否定する。八幡和郎さんがアゴラ記事(19年12月19日)で紹介しているように、魏志倭人伝は「帯方郡(現ソウル近辺)より邪馬台国に至るには1万2000余里」と記述している。九州の上陸地点である末盧国(東松浦半島)まで1万里、さらに伊都国・奴国・不弥国までを合計すると1万700里で、残りは1300里だから、邪馬台国は九州北部を出ないはずである。

これに対し、仁藤さんは、当時の中国の世界観では「1万2000余里」は異民族が住む世界の外れを指す観念的な数字であり、九州説は成り立たないとしている(15年の福岡シンポジウムでも同様の基調講演をされている。「纏向発見と邪馬台国の全貌」、角川文化振興財団、2016年)。

特集全体では畿内説支持のように見受けられる。纏向遺跡によって畿内説は勢いづいており、仁藤さんの観念的数字説で補強された形となっている。

■纏向遺跡は畿内説の根拠として疑問

私は纏向遺跡を卑弥呼の都だったとすることにも、「1万2000余里」を観念的な数字だから意味がないと割り切ることにも、疑問がある。

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■「1300里」と「水行30日・陸行1月」の矛盾の説明

魏志倭人伝は不弥国から邪馬台国は里数ではなく、「南へ水行30日・陸行1月」と日数で記述している。わずか「1300里」に「水行30日・陸行1月」もかかるはずがない。しかも「南へ水行30日」で行くような所に「陸行1月」も歩く陸地は存在しない。明らかに魏志倭人伝のどこかが間違っており、邪馬台国論争が決着せず、様々な解釈が生まれる原因になってきた。

逆に言えば、「1万2000里」と「南へ水行30日・陸行1月」という矛盾がなぜ記述されたのかが解明できれば、邪馬台国がどこにあったのかも明らかになるはずである。

私は、邪馬台国が九州と畿内の両方にあったとすれば、説明できると考えている。九州は福岡の旧山門(やまと)郡(現みやま市瀬高町)の可能性が高い。畿内は纏向遺跡のある大和である。以下のようなストーリーだったのではないかと考えている。

■山門から大和への移住と交易

山門にあった「邪馬台国」の一部集団が、倭国大乱が収まった西暦180年ぐらいから瀬戸内海を通って、大和に移住した。彼らは移住先でも「邪馬台国」を名乗った。

移住があったことは、九州と畿内の地名が類似していることからもわかる。鏡味完二氏は「九州と近畿の間に、十一組の対の相似地名をとり出すことができる。…(それらの地名は)ヤマトを中心としている。…これは…九州から近畿への大きい民団の移住ということを暗示している」と指摘する(※「日本の地名」、角川新書、1964年)。

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九州北部と畿内にはその後も頻繁な交流・交易があった。弥生後期に鉄器が九州北部から畿内へ、畿内式土器が九州北部に普及していった。山門と大和の邪馬台国の集団も両地域を行き来しただろう。九州北部から瀬戸内・畿内にかけて、国同士の緩やかな結びつきがあったと思われる。

■陳寿は2つの異なる報告を混在させた

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魏志倭人伝を記した陳寿は「1万2000余里」「水行30日・陸行1月」という矛盾する記録に戸惑ったに違いない。魏志倭人伝は陳寿が記した三国志のごく一部である。推敲の余裕はなく、矛盾する記録をただつなげて混在させたと考えられる。

これが私の邪馬台国九州・畿内並存説の概要である。並存説はネットで調べたら先人がいた(※新邪馬台国論、大和岩雄、2000年、他)。私の説は2つの邪馬台国の成り立ちや、魏志倭人伝に2つが混在した理由の説明が異なる。

大和の邪馬台国は西暦300年ぐらいから大和政権に発展した。

一方、鉄器の普及に伴い、九州北部の優位性は失われ、山門の邪馬台国は狗奴国(熊本)によって滅ぼされた可能性が高い。大和政権が九州遠征して敵を討ったのが、景行天皇や日本武尊、神功皇后の熊襲征伐の物語になったのではないだろうか。日本書記には、景行天皇が九州遠征で山門の先の八女・うきはまで立ち寄って、女神が山中にいるという話を聞いたという逸話がある。大和政権は卑弥呼のことを懐かしんだに違いない。(浦野 文孝)

2020年11月22日 06:00
http://agora-web.jp/archives/2049033.html
レス1番の画像サムネイル

2 : 2020/11/25(水) 22:59:46.22 ID:zt06Osko0
九州にあったのが畿内に東遷したんでしょ
3 : 2020/11/25(水) 23:00:41.95 ID:A+bwjxlo0
実は日本列島の形が今とは違ったんだよ!
4 : 2020/11/25(水) 23:00:47.33 ID:H15vMb8t0
このスレは荒れる
26 : 2020/11/26(木) 00:07:20.65 ID:dPkyVlzC0
>>4
荒れないよ
九州説でケリついてるから
オレがケリをつけた
5 : 2020/11/25(水) 23:02:18.36 ID:VB/iwtln0
邪馬台国が大和朝廷そのものなら古事記か日本書紀にそう書くだろう、あえて無視したのは実はヤマト朝廷から見たら邪馬台国ら大したことことない雑魚国家だった証拠、すなわち九州の小国
6 : 2020/11/25(水) 23:08:38.81 ID:wPRQqNXX0
若者は東へ
老人は九州に残った
8 : 2020/11/25(水) 23:09:59.32 ID:XTJ4iCFJ0
12000里が観念的な距離でも、それぞれの国の間隔の比率は概ね合ってる
移動にかかった日数から出る比率を12000という数字の中で適当に割り当てていったんだろう
当時の度量衡から見れば長大な数字になっている
とてもミスとは思えない明らかな意志が感じられる
そんな数字を目の前にしていながら、日数や墓の数字を根拠にして畿内説を主張するのって頭おかしいんじゃないの?といつも思うんだけど
9 : 2020/11/25(水) 23:12:04.61 ID:Pu9Nm4Kl0
あり得るね
10 : 2020/11/25(水) 23:14:48.64 ID:wPRQqNXX0
12000里とかかる日数を繋げるのがおかしい
12000里にかかる日数が水行30日、陸行一月
11 : 2020/11/25(水) 23:16:49.74 ID:Tkiuqfgj0
九州にあった確率と近畿にあった確率が混ざりあって共存している

九州にあったと思えばあったし
近畿にあったと思えばあった

25 : 2020/11/26(木) 00:06:17.77 ID:dPkyVlzC0
>>11
涙拭けよ近畿パーwww
13 : 2020/11/25(水) 23:18:37.00 ID:FixTxGKv0
日本は中国朝鮮からの移民で成り立っているので畿内ではなく九州北部だろ
邪馬台国時代にはまだ日本が存在しなかった
14 : 2020/11/25(水) 23:24:37.80 ID:rZcHtxIu0
邪馬台国は村おこしに利用しないとやっていけないど田舎の寒村らにあった事にしようw
16 : 2020/11/25(水) 23:28:01.18 ID:cegfMWEJ0
京都と東京
邪馬台と大和

歴史は繰り返す

17 : 2020/11/25(水) 23:29:09.33 ID:5yct/AZI0
>>1
距離と日数から推定して投馬国の存在が矛盾を生んでいる件についてある人の本では
倭人伝記述と実方向はずれてる(倭人伝でいう南は実方向は南東)、
関門海峡から豊前国を右手に見ながら「南下して」海路10日ないし陸路30日で宇佐の邪馬台国。
投馬国は左手側、対岸の山口県に見えるからわざわざ記述されたとしてたな。山口沿岸まで陸路で行けないから海路のみの記述になると。
18 : 2020/11/25(水) 23:34:41.26 ID:p1FKKXG/0
地上になくて空中にあったんだ!
19 : 2020/11/25(水) 23:37:28.07 ID:LIFKumYA0
実はラピュタ
20 : 2020/11/25(水) 23:37:45.06 ID:/L/kE7tG0
魏志倭人伝で実在した可能性があるのはイト国まで。
そこから先は作り話。
21 : 2020/11/25(水) 23:39:18.25 ID:4dRNIQqg0
九州にあって西日本を統治していたんだろな 大和とは読み方も違うし無関係
22 : 2020/11/25(水) 23:49:57.22 ID:RSxLX3Gp0
>>1
邪馬台国エジプト説
木村鷹太郎
23 : 2020/11/25(水) 23:56:36.03 ID:MuizFGlV0
実在したとしてもふーんで終わる話
所詮他国の記述だし
27 : 2020/11/26(木) 00:09:58.60 ID:aqmZaIch0
>仁藤淳史さん監修

仁藤敦史でしょ。
人の名前も正確に書けないのか

28 : 2020/11/26(木) 00:11:24.37 ID:uqTE+yDJ0
古代パラレルワールドか胸熱
33 : 2020/11/26(木) 00:31:27.54 ID:mjlXI2T10
へぇー
どのみち渡来人が我々クソジャップに文明を授けてくれた事実は変わらないよね?
35 : 2020/11/26(木) 00:33:43.52 ID:nLWPjtsW0
卑弥呼が原始宗教で原始人を支配していた頃に中国では三国志だもんな
文明水準が違いすぎて笑える
37 : 2020/11/26(木) 00:38:41.33 ID:kj3oQXFT0
>>35
まあな
それを隠したいから今まで捏造しまくってたんだからな(笑) わらえるだろ?
しかも、その正統性を示すために、今までにどれだけの罪の無い人々を消してきたのかねぇ アホ過ぎて草も生えん
36 : 2020/11/26(木) 00:35:42.96 ID:G1MnMuzM0
九州はほぼ確定だろ、地理的にも中央部だろうな
42 : 2020/11/26(木) 00:49:57.17 ID:LXxIXqdE0
普通に考えて始まりは北九州だろ
そして東へ移ったと考えるべき
京都から東京に変わったのと同じだろう
45 : 2020/11/26(木) 00:52:37.41 ID:0R6nAyrp0
鹿児島でも重要なのは大隅側で薩摩には目立つものもなく最初に日向から切り離されたところ
46 : 2020/11/26(木) 00:53:28.45 ID:xdczq5AI0
水行十日陸行一月は倭人の口伝

魏の使者は行ってないってこと

つまり伊都国で張政とイヨは会ったわけ

50 : 2020/11/26(木) 00:57:01.30 ID:eMA197KO0
>>46
そのあたりが妥当だよな
48 : 2020/11/26(木) 00:54:15.17 ID:kj3oQXFT0
邪馬台国は筑後付近が拠点。
南部熊襲の縄文人を利用して北部の奴国を滅ぼす。
その後一部が東征し、奈良に拠点を移す。
磐井は九州に残った邪馬台国の一族。
隼人は邪馬台国に利用された熊襲の生き残り。
アズミは奴国の生き残り。
49 : 2020/11/26(木) 00:56:44.26 ID:kj3oQXFT0
マジでいい加減にしろよ 野蛮本州人共(東北は除く)

コメント

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